瞑想へのきっかけ
ヤンゴン夜のスーレーパゴダ
自転車での旅を終えたのが約5年前の夏。
それから毎年、夏に海外の山を登ることをチャレンジしてきていた。
去年の夏も海外の山へ登るつもりでいた。
それが去年の2月。
オリンピックかあった。何度も感動を受けていた。
そんなオリンピックまっただ中に民間人が多数亡くなったシリアの空爆のニュースが流れた。
そして、その日は日本人の誰かが金メダルを取った日と重なった。
シリアの空爆のニュースはそっちのけで
朝から報道はオリンピックの金メダルのニュース一色。
シリアのニュースはおまけみたいな扱いだった。
遠くの悲しいニュースより近くの嬉しいニュースの方が世間の需要があるのは分かる。
でも、なんなんだこの世界はと思ってしまった。
間違ってるだろ。
人の命と金メダルどっちが重要なんだって。
そこで観た映像は小学生高学年ぐらいの女の子とその妹なのか、女の子2人が、がれきの中に立っていた。「私達には逃げる場所も隠れる場所もない」と言っていた。
シリアはまだ平和だった10年以上前に訪れていた国でもあった。シリアの幸せな日常がまだ、自分の脳裏に残っている。
その悲劇に自分に何が出来るのかって何もできない。出来ることはないのかもしれない。だからといって、そのことを考えずに生きていいのだろうか、遠くの場所で起こっている悲しみに何も考えずに生きていいのだろうか。
今の自分は山なんか登ってる場合じゃないんじゃないか、登ってていいのだろうかと重い気持ちになって、毎年、夏にチャレンジしていた海外登山は去年、一時ストップした。
世界の問題や悲しみを自分の問題と悲しみにするのは違うと言われたことがあった。
その通りだと思う。
でも、だからと言って他人の事として流して生きていいのだろうかとも思う。
このタイミングでこのシリアのニュースを観て考えさせられた。そんな理由で、山を一時ストップし、一度頭の中を空っぽにして少し心に焦点をあてようと思ったのがきっかけで瞑想を受けた。
それが去年の4月だった。
バンコク ワットパクナム寺
瞑想を受けた結果。
何か変わったわけでもないしシリアの問題で悩んだ答えも出ず、そして思考の変化もさほどなかった。
それでも瞑想の何かが引っかかってたのか迷いの渦中にいたからなのかはっきりと自分でも分からないが去年の12月からミャンマーで再度瞑想を受け始め、現在に至る。
正直まだ、よく分からない。
分かるには時間が必要だと思える。
そして詳しくは分からないのだけれど瞑想とは心のトレーニングでもある。
精神的な苦痛や痛みの事柄は心が左右することは想像出来る。
そして身体的な外傷や苦痛さえも心が判断する。
これはなかなか想像出来ない。
例えば、骨折する。それは大変な痛みが伴う。でも、ここで心が整っているならば、その痛みさえも痛みにならない。
嘘のようだが本当に痛みを感じないでいられる。痛いと思うから痛いんだと言うのは本当だと思う。
そう、精神的、身体的を含めた全ての物事、事象は心が判断する。
そう。心がすべてである。
そう考えると心は人生において最重要ポイントだろう。
ならば、もう少し瞑想して、それを鍛錬したいし、もう少し理解もしたい。
チェンマイの町と山
シリアのニュースを見てほんの少し頭の中を空っぽにしたいと思ったのがきっかけで、こんな感じになるとは自分でも想像していなかった。
これをする事で何かの答えが出るわけでもないし
時間の浪費に終わるかもしれないという不安もある。
でも、人生って気になることやって死ぬか、やらないで死ぬか、それだけなような気がする。
ならばやってみるべし。
やってダメだったなら、納得がいく。
とりあえず2ヶ月入る。
納得しなかったら延長、延長で
最長1年。
人生80年だとして、その中の1年ぐらい瞑想修行にあててもいいんじゃないかと思ってきている。
そんなんで明日からミャンマーのヤンゴンで瞑想生活に入ります!
周りのみんなが家庭持って子育て頑張って、仕事を頑張っているのを想像して
必死でやってきます!
一発かましてきます!
長く音沙汰なくなるかもです!!!
どうか少しでも我が削られますように!!
良い春を迎え下さい!!!
グットラーク !!!
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